「中行説出塞」

真樹 操

「季刊歴史ピープル」1997年陽春号掲載《未収録》
「ならば、ひめさま──あの者たちを手放すのではなかったと、後悔させるような人間になってみようではありませぬか。そしてわれらを匈奴におくったことを、漢に心底くやませてやりましょう!」そう説いた、男ではない男・中行説の激しい感情は、我が身の不運に泣き濡れる女の心に微かな希望を灯しました。蕃夷の地へ放擲するかの如く嫁がされるだけの自分の、新しい可能性を見出した彼女と、中行説の前途は……

真樹操の「中行説出塞」は、彼女が短編で書くことを好んだ異能人物伝の一作と見て良いでしょう。恩讐の念有りと言えども、漢人でありながら匈奴へ積極的に与した人物像はまさに異彩を放っています。特に我々は中島敦による『李陵』で、二国の争覇に翻弄される李陵や蘇武をよく知っていますから中行説の存在はある種の驚きをもたらしてくれます。
「中行説出塞」の粗筋は基本的に『史記』にある中行説の記事をそのまま取り、漢と匈奴の関係をやわらかく纏めた歴史読み物風の体裁です。

中国全土を統一した秦の始皇帝が没しての後、漢土は再び千々に乱れることとなりました。その間、中国の北方は異民族たる匈奴の王・冒頓が覇権を握る地となります。かつて北辺に駐屯して匈奴を震撼させた将軍・蒙恬のごときを踏襲することは、漢を興した高祖・劉邦にも行えず、劉敬の言を一部取って懐柔策を施すのみでした。劉邦の死後には、漢の支配者として君臨する呂后その人自身へ伽を申しつけるかのような匈奴王の脅しにも膝を屈せねばならなかったのです。
斯くの如き匈奴の隆盛に対した漢民族の施策といえば、金帛玉弊や玲瓏たる女性を貢ぎ物として送ることでした。これは単なる匈奴へのご機嫌取りという面が強い一方、劉敬による当初の献策のように、匈奴を内部から弱体化させるという面での効果も失っていません。つまり、質実剛健をもってなる匈奴の兵を中国文化の華で華美享楽に染め、また漢人の血を混ぜることで漢への親和を呼び起こそうとするものです。
しかし、こうした漢の手の内は夷狄と侮る匈奴もうすうす感づかれるものであったかもしれません。そして、使節が遣わされ人士の交流が行われれば、策は時に国家の思惑を離れて個人の手と念に帰すのです。

古代中華帝国と周辺諸国の関係史を彩る人物としては、軍事を司る将軍や文物を運ぶ冒険者──仏法の伝道者や商人など──が表舞台に立つ主人公と言っていいでしょう。中島敦が描いた李陵のような。
しかし、その華々しい姿に隠れる人物も居るわけで。劉邦の世、呂后の世、そしてこの文帝の世に匈奴へ嫁がされた女性はその名を残していません。ただ、彼女に付き従った宦官・中行説は史書に記されています。
本来はこの時代、宦官などという唾棄される存在で名を残した人物などそう多くはありません。中行説がその顕著な例の初めではないかという気もします。これ以前であれば、始皇帝の死後に謀事を尽くした趙高が思いつく程度でしょうか。
中行説は宦官という身の上故、名もなき姫君たちと同様、物のように塞外へ追いやられました。不満を申し立てても聞き入れられはしない。彼はそういう存在なのです。
士大夫には並ぶべくもない宦官ではありますが、その見識は朝廷で皇帝に近侍する役目柄で時に高くなるものでしょう。宮廷にあった中行説の活動については不明ですが、彼はただ雑務をこなす使い走りというわけでも無かったのではないでしょうか。この作品、もしくは『史記』に見える説は、匈奴王や漢よりの使者を感服させるほどの雄弁を持っています。
しかし、その才に気付く者、それを手放すことの意味を識る者は漢に居ませんでした。彼が宦官であることはその最大の理由でしょう。ですから女子供同様に軽く扱われたのです。その屈辱たるや、如何ばかりのものか。
司馬遷はなにも語りません。閹人などという共通点だけで、説を深く表す由を求めるのは偉大なる歴史家への侮辱かもしれません。

「中行説出塞」は漢と匈奴の関係史に表れる中行説を、この作者にしては何のてらいも無く描いている方だと思います。しかし、文帝により匈奴へ降嫁せられた姫と中行説との間に、同志めいた共感を断片として封入している点が面白い。
漢への復讐を期する熱い心は没個性であるはずの姫にも表情を与えて、後の世の王昭君や文成公主のような豊かな色彩を期待させます。しかし、その熱を受け渡した後の説は秘やかに歴史の舞台から消え去って行きます。
この部分を膨らましてくれれば、もう少し面白かったというのが心残りです。

この次に読むなら?

「宦人中行説」