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2006年02月26日

『アゴールニンズ』 ジョー・ウォルトン著 和邇桃子翻訳

ジョー・ウォルトン
発売日:2005/06/09
価格
あまなつ
読んだのは結構前なんですが、『アゴールニンズ』の感想です。取り留めも纏まりもなくだらだらと。刊行当時のインプレッションはコチラ

色々と紹介など見ていて、ドラゴンファミリーを彼ら自身の目線で描いたファンタジー作品と言うことだけはわかって読みましたが、正直こんな話だとは思わなかったなあ。ドラゴン家族そのものの存在感に意外性があったというより、どちらかというとそれに対比されるであろう人間どもとその社会のポジション設定が斬新でした。(とは言っても、人間はほとんど出てこず、過去に些かの諍いを契機にした文化接触があったというような世界設定)

西洋産ファンタジーは、国内&中華に比較すると断然に読書量が落ちますのでしっかりと申せませんが……確か悪の化身として人間を襲ったり姫君を攫ったりして勇者に倒されるドラゴンというイメージを逆手に、実はドラゴンは平和主義者であってむしろその財宝を強奪していく英雄が悪逆非道という逆転の発想で語るファンタジーはいくつか在ったと覚えています。
むしろ、ドラゴンに孤高の賢者のごとき聖性を与え彼らを野獣のように襲いかかる醜い地を這う獣・人間族という構図は、既にパロディや風刺を越えて定番と化している現状かと思われます。まあ、それで、それぞれの種族の中にも革新的な個体がいて、相互に友情を確立させたりとかいうのがストーリーを彩なす部分かなっと。
イメージの方向性の差異はあれども、ドラゴンをエルフやドワーフ、ホビット、或いはゴブリンに置き換えるというのも、世界観の構築としてはアリだと思います。

「アゴールニンズ」も、そういう単純な異種族の対比でファンタジーを構築しているのかと思いきや、全然違いました。
自分たちとは違う世界・違う種族というクッキリした対比がファンタジーを産み出すひとつの背景かと考えますが、「アゴールニンズ」はドラゴン社会というファンタジーを現実のヴィクトリア朝を舞台に仮託しています。なんだろう、境界をはっきり描くのではなく、入れ子式にしてその「ブレ」で表すという感触。うん、うまく言えません。

つまり作中のアゴールニン一族をはじめとするドラゴンたちは、ドラゴンの躰を持ったままヴィクトリア朝期の人間のような社会を営んでいます。人間のように階級社会を構成し、ドラゴン同士で搾取したり搾取されたり。もちろん、恋や自分の将来に悩んだり、仕事も領地経営する貴族から都会に出て働く者もいます。ここらはヴィクトリア朝時代のほとんどパロディとなっているのです。
考えてみれば、現代の我々からしてみればヴィクトリア朝も既にファンタジーになっている面はありますね。

でも、やはり想像するヴィクトリア朝の印象とは間違いなく異なる、いかにもドラゴンらしい生活振りというのも描かれるわけでありまして。
例えば、彼らの基本的な食事はどんなに取り澄ましたドラゴン貴族のレディたちでも、牛や羊と言った家畜をそのままムシャムシャばりばり。それ以上の物凄い得物を食べることもありますが、これはお話の大事な部分なので内緒に。そして、そんなドラゴンらしい振る舞いの一方では、バランスのよい食事のためにと、ジャムを作り食べることもあります。お肉はシチューとかの料理にするより、新鮮さしたたるのをかぶりつくのが一番と思っている様子。
さすがに服は着ないようですが、帽子は男女ともにお洒落の醍醐味です。これは旧ヨーロッパっぽさにも相対しているでしょうか。
汽車も存在しています!(スチームドラゴンパンク?!) でも、ドラゴンたちは一部の聖職者や労働階級を除いて飛ぶことの美徳を忘れていないので、最先端の乗り物って感じにも受け取ってないようで……ヴィクトリア朝時代人も臭くて煙たい汽車よりは、旧式の馬車の方が安心できるし優雅という認識だったのかなーと思う対比でしたね。

こんな感じで、ヴィクトリア朝時代のパロディを描くという表向きの狙いに、人間みたいに振る舞うされどドラゴンの世界を広げる捻りが効いていて面白く読みました。
これ、真っ向からヴィクトリア朝期を書いたらさすがにキツ過ぎるんでしょうか?
現在の日本でも下流社会なんて言葉が取り上げられるようになりましたが……。ヴィクトリア朝の現実にそれほど通じているわけではありませんが、ホームズ・シリーズを読んでいた子供の頃にも、スラム街やパブに溜まる貧しい下層労働者の存在が印象的でした。それから、貴族の夫人や成功している先進的職業婦人、酒場のあばずれ女と様々な階層の女性たちも。
これらの不条理と差別などをマトモに書いたらかなり皮肉な風刺になるのかもしれないけれど、そこにあるのは人ならぬドラゴンたちの狂想曲です。微妙にブレているので、リアルにならずファンダジックに楽しむゆとりが出来ます。
アゴールニン家の中でも、父親という庇護者を失って寄る辺のない未婚の乙女たち──仲良し姉妹セレンドラとヘイナー──の行く末がどうなるか。また、次男坊エイヴァンの恋人・街娼あがりの書記嬢セベスの存在も注目でした。

ドラゴンの世界は言葉通りの弱肉強食で、血色の悪い緑色ドラゴンは他人(他ドラゴン)の餌食になるのがオチですが、子供時代を過ぎた娘ドラゴンたちは別の意味で社会から体色による選別を受けるというのがなんとも歯ぎしりする思い。
「そんなもんで識別されちゃうなんて、アタシやだわ」
なんて世間に対して不満をいだいている女性たちは、現代の日本では減ったのかどうなのか。
男女差別とかジェンダーの話は勢い込んでせぬように戒めつつも、そちらの視点で読みたくなったのは本当のところでしたね。女性の方がより楽しめるお話と思いましたが、如何でしょうか。

それにしても「ピンクになる」という表現は、原著でどうなっているのか気になる述語でありました。
たぶん、そのままなんだろうと思いますけどねえ……「pink(ピンク)」という語には英語圏では本来エロチックな意味合いは無いはずなんですが、日本ではちょっと性的なイメージをもたらす言葉ですよね。
先に挙げた姉妹セレンドラとヘイナー、そしてセベスという娘ドラゴンたちには、この「ピンクになる」という事態からの悲喜交々が降りかかる訳です。
ごくごく妥当に「ピンクになる」ことを済ませたのは長女のベレンドでしたけど、赤く輝く身になった彼女の行く末も色々と思いをはせる部分はありました。

そんなわけで、「ドラゴンっているんでしょうか?」と好奇心いっぱいに訊ねてくる子供や夢見がちなお嬢さん方には奨めるべき本ではないのかも(笑)


ところで、翻訳家の和邇桃子さんには色々ご教唆をいただいたおかげで、苦手に感じていた英語翻訳ものも面白く読めるようになってきた気がします。
自分はやっぱり、気にしていないようでいながら日本語の呪縛と美徳にどっぷり浸かっているようなので、翻訳された文章をなんとなく読んでいると感じる微妙な違和感が嫌いでした。近頃ようやく、英語で書いている作家の温度と、それを読み解いて日本語でリライトする翻訳家の温度との差を意識出来るようになりました。
漢文を読む際に行うテクニックですが、返り点など入れつつ素読するレベルと、それを書き下して漢文調の日本語に著すレベル、そして他人が読んで内容が伝わる文章に再構成するレベル、それぞれで実は意図するポイントって違うのだよな。返り点だけのレベルは漢文読めない人にはチンプンカンプンだし、三つ目のレベルは訳者が読み違えていたり主観を入れすぎている場合もあり行き過ぎれば超訳・翻案になってしまうのでしょう。真ん中の書き下しレベルは無難に思えるかもしれないけど、日本語の文章としては成ってないケースが多かったり。
小説翻訳でもこれに相応するような感覚はあるのかも、と気付くと少し楽になりました。
和邇さんの訳は、再構成レベルに近い書き下しレベルかなと思います。だから正直なところ、バリー・ヒューガートの「鳥姫伝シリーズ」は時々なめらかな日本語にはなって居らず苦労する部分があったのでしょう。それを敢えて直すと、原文の雰囲気は消えちゃうんでしょうねえ。また、「ディー判事シリーズ」のヒューリック氏の文章は古典に入りかけたものですから、やはり会話文と地の文の繋ぎに多少違和感があったりします。
今回のジョー・ウォルトン作品は原著者と翻訳者の温度差が小さいように感じ、素直に読めました。ウォルトンさんの英語って、ちょっと古文調のクラシカルな香りの漂うものなんじゃないかと想像しました。わかんないけどね。

ドラゴン社会における爵位や十ヶ月のドラゴン暦の訳には楽しませて頂きました。
ドラゴン爵位は原文でも「公侯伯子男」に相応させられるDuke、Marquis、Earl、Viscount、Baronそのままなのかと思いきや、Illustrious(啖)、Eminent(甲)、Exalted(珀)なんですな。考えてみれば、「公侯伯子男」の爵位は中国周代の諸侯を著す五等から取ってきたわけで。翻訳って難しい反面、意外な面白味というか、翻訳者さんの工夫に脱帽するところも多かりしです。

投稿者: 冰児